昭和50年の頃。
この頃「エースをねらえ!」などの人気もあり、第二次テニスブームが到来していました。
しかしテニスを教えてくれる施設や指導者は少なく、
北大テニス部に在籍していた蒲生(ウイング代表)は指導者として引っ張りだこでした。
しかしテニス指導者の需要は高まるばかり、そこで立ち上げたのがテニスコーチ派遣業。
北大テニス部の仲間とともに、「Sports Enjoying Team」(SET)を結成します。
SETはテニスコーチの派遣を中心に、テニス施設の管理、
さらにスキースクールまでも手掛ける行動力と若さにあふれる団体でした。
そして独自のテニスサークルを設立し、様々な場所を借りながら活動を広げていきました。
これがウイングの前身となります。
SETの活動は多忙を極め、
仕事を終えた後、毎晩どこかで一杯飲みながら打ち合わせという日々が続きます。
あまりにも毎日飲んでいたので、
いっそ自分たちで飲み屋を作ってしまおうというノリでテニスパブ『熱吐飲』をオープン。
テーブルにテニスコートが描かれ、調度品はテニスに関する物ばかり、
接客はテニスコーチ自身、日替わりでサークル女性が手伝ってくれるという、
何とも楽しいお店になりました。
店にはテニス仲間が多く集まり、酒を酌み交わしながらテニス談議で盛り上がるという、
忙しくも充実した日々が続きます。
その後も活動の輪は広がり、サークルの会員数は200名を超えるようになりました。
しかし、ここで大きな落とし穴が。
当時は学校の体育館や公営のテニスコートでの活動がほとんど、
ところが突然、札幌市から公共施設での営業行為は違法との指摘を受けたのです。
他の指導者も営業を行っていたので、違法行為をしているという認識はなかったのですが、
公共施設でのスクール営業はやめ、民間企業の体育館を借りながら活動を存続しました。
これが後々、ウイング開校という幸運を呼び込むことになります。
これまでの公営施設でのスクール事業ができなくなった以上、
自前のテニス施設を確保する必要に迫られました。
そしてテニススクールに適した物件を探す日々がはじまります。
昭和61年、室内1面に適した倉庫を厚別区大谷地に見つけます。
SETも株式会社エス・イー・ティーに改め、
その年の11月、人工芝1面の室内テニススクールがスタートしました。
スクール名は「ウイング」、「翼」で大きくはばたけという意味と、
勝利の「WIN」と蒲生の「G」を合わせた名前でした。
その頃、室内1面のスクールであれば目標は生徒数250名と聞かされていました。
しかしスクール経営は手探り状態、そこで幾つかの異業種交流会に足を運ぶようになりました。
他の業種の多くの経営者との交流が、その後のスクール運営に大きく貢献します。
スクールは順調に伸び、数年で400名、そして600名を超しました。
その頃から全国のテニススクールの注目を浴びるようになり、
平成7年に埼玉県大宮市で開催された第6回日本テニス産業セミナーの講師として呼ばれ、
ウイングを全国に紹介するまでになります。
その後もウイングは独自のシステム開発や、多彩なイベント企画で成長を続け、
そして伝説の室内1面、生徒数800名、年間売上1億を達成するのでした。
そして多くのテニススクール関係者が、ウイングを視察に来るようになります。
大谷地校の成功の後、ウイングはさらに発展を続けます。
平成6年、帯広市に室内1面のウイング帯広校、
平成17年、札幌市西区に室内3面屋外1面のウイング札幌ウエスト校、
平成23年、札幌市豊平区に室内1面のウイング羊ヶ丘校を開校して行きます。
このように、数々の新しい試みや企画を展開しながら、
今もなおテニススクールとしての成長を続けています。
テニスには大きな可能性があります。
ウイングではその可能性を求めてスクール以外でも多彩な活動を行っています。
ニセコやサホロを中心とした「テニスリゾート事業」、
福島県いわき市の小学生をテニスキャンプに招待する「明日への翼プロジェクト」、
オーストラリアや沖縄のテニススクールとの「テニス交流事業」、
イベント会場にテニスコートを出前する「ストリートテニス」、
砂の上で行う「ビーチテニス」、
FMラジオで毎週放送されるテニスコーナー「ウイング・ブルドン」…
帯広校の南支配人と大谷地校の谷江コーチはウイング開校当時からのメンバーです。
その後も多くのスタッフが関わりながら、ウイングは成長を続けています。
これからも皆様と一緒に、テニスを通して多くの夢を見て行きたいと思います。
応援よろしくお願いいたします。
インドアテニスセンターウイング代表 蒲生清